さあ、天気もいいようだ、邪馬台国の首都へ行ってこよう

 あーあ、私はどうしてこんなに間違うのだろう?
 まず、「馬」で間違ったかもしれない。 私は権威ある大学の先生が書いた本を受け売りして、弥生時代の日本にも馬はいたことはいた、と書いたのですが、その本以外はみな、当時は馬もウシもいなかったと書いてある。
 しかしそれだって、魏志倭人伝にそう書いてあるから、それをそのまま信じたのかもしれないから、私がただちにそれを信じるわけにはいかない。

 ま、いなかった可能性が大きい、ぐらいにしておこうか。
 いたとすれば、大陸で馬に乗っているのを見て、日本でもすぐ真似が出来たはずだ。

 5世紀の初めに、馬に乗る技術が伝わってきたという。馬自体も一緒に入ってきたのかもしれない。すなわち、その頃になって、ようやく、舟が馬を乗せられるほど大きくなったことを意味するだろう。


 ヒミコを補佐して実際の政治、軍事を行っていたのは、ヒミコの弟だったと魏志倭人伝に書いてある。
 先日私は、その弟が崇神天皇だったかも、なんて書きました。ちょっと早とちりでしたね。根拠がない。
 どうも私は左脳がダメだ。

 まあ今朝は、自分の間違いにイラだっているのですが、そんなことよりも、今日はこれからヒミコの「みやこ」へ行くんだ。こっちを考えるのが楽しい。

 ヒミコの箸墓古墳のある辺りから、昔は舟で大和川を約4km余りくだったところにある唐子・鍵(からこ・かぎ)遺跡がそれじゃないかと。

 これ、近畿最大で42ヘクタールあるという。
 北九州の吉野ヶ里遺跡の59ヘクタール(?)に及ばないが、
 当時の日本の首都だった筈の所が、それでいいのか?

 ま、面積では叶わなくても、内部の密度がどうであったかとか、周辺の事情がどうであったかとか、いろいろあるからね。

 その辺りの問題を念頭において行ってこよう。


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