人生の難題に直面して我が哲学ひろがり深まる

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 (ユリカとサクハが、この爺にコーヒーカップをプレゼントしてくれました。
 添えられていた木の小片には
  「ほんの きもちです」と
  「いつでも きみの みかただよ」と書いてあります。
 私は毎日コーヒーを、かわるがわるユリカのカップで飲んだりサクハのカップで飲んだりしています。
 この春、桜が咲くころには、ユリカは小学5年に、サクハは4年に上がる。

 二人とも天才だ、ユリカはアタマの回転が早く難しいディズニーの翻訳物の童話をスラスラ読める。サクハは釣りの天才。
 我が人生、この二人との不思議な出会いに神を感じ、なけなしのカネをはたいて習いごと(=プール、ピアノ、柔道)に通わせ、二人を育てている)
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(すぐ上の二枚はユリカ、サクハを連れてタケノコ採りに行ったときの写真です)

 3月は魚を釣りに行けなくて地獄の底で喘いでいました。やっと4月。そろそろ釣りに行きたいと思っていますが、とりあえず、地獄のどん底で得た成果を、ここに書き留めておきます。

                  ( つづく )

 私まもなく84歳になる。またまたクルマの免許更新日がやってきた。3年前も眼鏡をかけても両眼視力0.5しかなく大変心配したのだった。
 あのとき、私の哲学で一生懸命考え、「それでも視力検査にウカルだろう」と予測、見事的中した。
 今回は、あのときに比べて白内障が加わり、どうかすると0.4しか見えないときがある上に、私の釣りが天井をつけ、また哲学も、「もう、こんなもんでいい」などと言い出している。
 今回は、「パスするだろう」と予測するのが難しく苦悩した。

 でも結論は「今回も心配ない」だった。 
 まあ、3年前にどのように考えたか?を、ここにコピペすることから始めましょう。

            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 2016・06・11「サクハ小学1年、鹿島灘・日川浜に遊ぶ」
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 そろそろ釣り日記が出るころか、と期待していた方も世間には一人ぐらいはおられるかも知れませんが、この爺、こんなところで、自分の子供でもない、よその子供と遊んでいるんだから、ほらあ釣り日記は御無沙汰ですね。
 ぼくカメラの趣味がないもんで逆光とかのムズカシイことはわからない。顔が映っていなくて残念。だけど梅雨の晴れ間、青い海に打ち寄せる白波をバックにしたサクハの体の輪郭がかわいい、カッコいい、と思うんだけど・・・ひいき目ですか?

 ここ日川浜は鹿島臨海工業地帯の南のはずれ(今はね)、遠くに風車が見えているでしょう?あの向うが銚子の港です、イワシがいっぱい水揚げされ、クレーンでトラックに移すときに網の目からイワシがバタバタ岸壁にこぼれ落ちています。

 日川浜は私、何年かまえに訪れてネットに書いたことがある、
 「Oh! a lot of H2O!」と、神が創造した水分子の数が多いのに驚き、
 また、
 「名も知らぬ遠き島より流れよるビニールバケツひとつ・・」
 と書きましたね。
 ちかごろはボランティアによる清掃活動がちょくちょく行われるようで、昨日は、大ゴミは目立たなかった。

  ( つづく  あとは恐怖の免許更新申請日があと数日に迫った、眼鏡をかけても両眼視力0.5 というお話がメイン )

 サクハは渚で遊ぶのは生まれて初めてだそうです(いわゆる貧困家庭の子供、お母さんはおカネがない、クルマもない、クルマで20分ほどの距離だけど連れてこれなかった)。
 靴と靴下をぬぎ裸足になって、滑らかに寄せては返す水のなかに入っていきました。すーっと押しよせてくる波に、「キャーッ、怖い」と、はしゃいで逃げていました。1cmほどのカニを彼女の手のひらに載せてやると、これまたキャーッ。生まれて初めての感性はみずみずしい。大人はこれが楽しいんだ、子供の驚く様子を見るのが楽しい。

 この日は、もともと、ガマがタケノコ採りに連れていけと言うもんだから、そのつもりで迎えに行ったところ、「こないだ行ったばかりだから今日は日川浜の海、とりあえず貝を採っている様子を見てきたい」と言う、急きょ変更。
 何にも道具を持たず、ただ見に行った。サクハが手に持っている何やら赤いものも渚に落ちていた子供用のショベルを拾ったものです。
 カネをかけず現地で拾ったオモチャでサクハが大はしゃぎしているのを見て、私も連れてきてやってホントによかったと思った。

 ここのところ私、釣りが天井気味か、大アイゴがよく釣れる。ほかに新しい釣りへ展開していく気もしない。
 このまま、あんまりマンネリの釣りを続けるのはよくないという神の思し召しだろう、
 ちかごろ釣りの回数が減り、代わってユリカやサクハをタケノコ採りに連れて行くことがあるようになっている。この日の日川浜もその一環。

 思うにこれは、私が生来、「女の昇華された美しさ」「芸術としての女」が格別好きで、いっとき博多人形なんかにのめり込んだ時期がありましたね。
 この延長線上でしょう、このたびユリカとサクハを与えられたわけは。

 動く人形、生きた人形として、こんどはユリカとサクハを与えられた。

 私が好きなものは、もうコレしか残っていない。

 不思議なものよ、気が付いたら、いつの間にか、かわいいユリカとサクハが私の身にまわりにいる。不思議な機縁でこうなった。

 神以外の何ものでもありません。

 最後に残っていた私が好きなもの、

    「生きた博多人形」

 それにしても、神は私が好きなものをよく知っていましたね。
 私自身、アイゴ釣りが天井をつけたら、もう自分が好きなもの、情熱を燃やせるものは残っていないと思っていた。

 神は、私よりも私のことをよく知っている。
 今朝も、ひとしお、神が自分を支配しているのを感じます。

 
 こんな神が私を支配しているんだもの、この先、自分の身に何が起きても心配ないはずだ。そのとき、そのときで、自分にできる精一杯のことをやっていこう。

 このたびの免許更新も神にゆだねる、私は自分が置かれた状況のもとで自分に出来ること、精一杯のことをするのみ。

               ( なお つづく )

 さて、いよいよ、あさって6月15日が免許更新の日。
 銀座の和真で目がねを作り直したのですが視力がどうしても0.5しか出なかった。
 それでも私はなお、「多分パスするだろう」と思っている。

 私の住む茨城の田舎は車社会、クルマがないと生活できない。警察の方でもこの事情がよく解っているみたいで、担当者としても、簡単には免許を取りあげないみたい、という経験を私は何度もしている。
 申請者が当てずっぽうに、「右、左、下・・」と答えるのに対して、
 担当者が、「ンでねえな、ンでねえな・・」、最後に、「ンだ」とパスさせるのをみたことがある。先日の高齢者講習会では視力0.2 しかない爺さんが来ていた。3年前の講習会でも、0.7に足りない人を見た。
 なんと、先日の高齢者講習会で、私が当てずっぽうに答えたら、両眼で0.8、片方は両目とも0.7もあった。まぐれアタリもヒドイ、というより何かの間違いだろう。だけど要するに視力検査は器械によって、だいぶ違うみたい。田舎警察のは甘いんじゃないか、銀座の眼鏡店のやつは厳しすぎるんじゃないか、というわけ。

 土台、私が今、免許を失っては生きていけない。
 この人類未曾有の哲学を完成させることが出来ない。

 一生懸命考えたんだけど、どう考えても今の私がクルマなしで生きていける線は見つからなかった。

 よって、今の私が免許を失うことは起きない。
 これが私の哲学による結論だ。


 もう少し根拠を追加しましょうか、
 
 先日、ガマの友だちが飲んで運転してぶっつけ、免許取り消しになったケースでも、お母さんのもとへ帰ればすむことだったじゃないですか?お母さんは70過ぎて健在、マイカーを運転している。ガマ友が仕事に出る日はお母さんに送り迎えしてもらうようになった。数年経てば、彼女自身また免許をとることが出来ましょう。
 もう一人の例、
 高校大学の先輩で福井大学で経済学の先生をやっていた人が緑内障で全盲になったケース。30歳で緑内障と診断され、20年かけて50歳あたりで全盲になった。この人はもともとクルマを運転しない人。ある程度見えれば経済学教授の仕事は続けられる。50歳で全盲になってからさえも、それまでの蓄積で講義はできたし、ゼミは、まず生徒にプリントしたものを読ませてから質疑応答に入った。そのようにして定年退職まで勤めを果たすことができ、退職してからは「録音図書」を借りてきて余生を楽しんでいる。

 神の創作はそのようなものだ。
 神の創作はそのようなパターンにある。

 神は、やたらデタラメに、やみくもに、免許を取り上げたり失明させたりしない。


   はたして明後日、パスするや?
   それとも私の哲学はスカタンなのか?
   私の哲学は、ただ自分の都合のよいように幻想しているだけか?
   みなさんの冷ややかな目の方が的中するのか?

   人間なんて、何にもわからないまま、ただオギャーと生まれ落ちてきただけだぞ。
   自分があんまり利口だとは思わない方がいい。
   これまでの常識を振りまわさない方がいい。
   自分を生んだ全存在に恐れおののき平伏すのみと言うのが正解と思う。

 わが人生、
 80歳になっても未だ適応期、骨の髄から満足できるとき、は来ず、苦悩にある。
 が、
 はからずも、
 私の知恵才覚努力をこえて、
 はからずも、
 気が付いたら子供のころからのたっての願い、「この世の深奥を喝破した偉大な哲学者になりたい」が実現しているではないか!
 この奥深い哲学こそは、私の一番欲しかったもの。

 ここに至る、私の人生で起きた全てが神の心の発現らしい整合性をもっている。


 おお、仏心鬼心あわせもつ神!
   全ての人の一生は、いいこと、と、イヤなこと、が半々にあって、みんな公平、
 食物連鎖の基本構造!
   われわれの苦しみは、すべての生きものを公平にするためにやむを得ないのです。

 (ウシやブタをたらふく食って、自分たち人間の幸せばっかり考える現今の人々は自分勝手、醜い。
 ヒロシマ原爆は神が落とした。
 でも、あれによって日本人の傲慢はとれ、今日、せつに平和を希求する日本人の美しい姿はある。
 神がそうした。)


 疑いたい奴は疑え、

 この哲学は、すでに私自身が自分の人生を生きるのに大いに役立っている。

              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
             
                  ( つづく )

 で、上記の予測はみごとに的中、数日後の免許更新手続きは無事パスできた。
 2016・06・17記の日記には、
 「どうお?オレの哲学による予測はアタルでしょう?」と勝利宣言している。

 で、その日記の後半に、パスできると予測した根拠を追加しているので、それも、ここにコピペしておきましょう。

                ・・・・・・・・・・・・・
 
 そうですね、あとは前回の日記で、「神は現在の私からクルマの免許を取り上げてしまうことはない」と判断した根拠をもう少し追加しましょうか。

 今の私は、ここ車社会の茨城に住んで、クルマがなければ全く生きられません。
 人によるんだ。
 アウトドアライフの釣りをやって哲学を語ることを生涯の生き甲斐とする人間、
 ここ鹿嶋一帯では一年のうち釣り期が短かすぎる。しかも格別の思いを抱いているアイゴ釣りは房総南部まで行かないと釣れない。

 300万をはたいて向うの安いマンションを買う線も一生懸命考えた。
 が、向こうだって天気が悪い日は釣れない。あんな田舎で釣りができなくて何をするんですか?パソコンはまさに緑内障のゆえに、一日の短い時間しかやれません。一日の過ごしようがない。
 しかも私が向うに住んだりしたら大変、すぐ冷蔵庫の中は魚でいっぱいになってしまうでしょう。

 ガマのような、釣れた魚を沢山もらってくれる人が簡単に見つかるものか?
 仮にガマのような人が向うで見つかったとしても、私が向うに住んで毎日釣って来る大量の魚を食べきれるとも思えない?
 第一、私が向うに住んで毎日魚を釣ったら、港には、たちどころに魚がいなくなって、神は、ほかの大勢の人を楽しませることが出来なくなる。

 海っぷちを毎日、一日中歩いてすごす?
 クルマがビュンビュン通っていますよ。
 私はそんな毎日、生きられません。

 ちょっと、私が向うに住む線はみつからない。

 こっちに住んで電動アシスト自転車で釣り場まで行くのは、遠くてしんどい上に、同アシストを盗まれそうだ。堤防のポイントまで歩く距離が長い。
 冷たい雨の降る冬でもアシストでガマンしろと言うんですか?
 この辺は、買い物でも銭湯でも遠いんですよ。
 どこへも出かけず、うちの中でボケーとしている日々がつづいて、すぐボケて死んでしまうでしょう。

 私の人生が、この先、そんなふうになっている筈がない。

 (人間一人ひとりが、その人ならではの個性の花を咲かせるのが人生でしょう。私は今なお創造的に生きている。まだ咲き終わっていない。
 私の哲学は、私でないと出来ない史上画期的なものだ。
 神は私の人生を未だ終わらせない。)

 私に免許がなくなるのは、私の身に何か大きな変化がおきて、クルマがなくても何とか生きられるようになってからだと思います。

 以上のように考えて、神は今の私から免許を取り上げることはない、と言ったら、みごと的中した。

 ホント、神は、デタラメに、やみくもに、我々から免許を奪ったり、失明させたりすることはない。 
 神が、我々から免許を取り上げたり失明させたりするのは、前回の日記に出てきたガマ友の飲酒運転のケースとか、私の先輩の失明の例のように、それで何とか適応できるパターンにあるときだ。 (あるいは、神がその人の人生を、そこで終わらせる場合ね。)

 この世はデタラメにあるのではない。
 この世は、神による秩序にある。

 我々は、めいめい主体的に行動するんだけど、

 不思議にも、

 深遠な神の英知によって、この世は仕組まれた秩序にある。

          ・・・・ 3年前の日記のコピペ終了 ・・・・

                 ( なお つづく )

 で、前回はなんとかパスできたものの、今回は事情が違っていて、「今回もパスするだろう」と予測するのが難しかった。来る日も来る日も考えた。
 が、ホント、人生の難題に直面して、いろいろ考え、また調べたりするのは知恵がつき知識もひろがる。

 私の哲学の「神のパターン」では、
 「私はまだまだ免許を奪われない筈。今後、私にも適応期があるはずで、サクハに釣りを教えたり、哲学仲間と釣りをしながら哲学を語り合ったりするにもクルマがいる。クルマがなく自由に動けなくては私の適応期はあり得ない」
 とは思うものの、

 視力が前回よりも少し悪くなって、とかく0.4しか見えない。こんなに見えなくても警察はパスさせてくれるのか?

 だいたい、法の規定はどうなっているのだろう?
 視力が0.7に届かなければ一律に再交付しないことになっているのか?
 ネットで調べてみた。どこにも私が安心できるようなことは書いてなかった。

 だけど3年前の日記を読み、あのときの経験を思い出していると、係員が私の視力を測定したあと、
 ちょっと考えているふうなそぶりをみせて、 
 「のっているクルマは何?普通車?」
 と訊いてきた。
 私、「いや、マイカーの軽自動車で生活に必要な最小限の用を足すだけです」

 このあと再交付してくれたのです。

 この経験は燦然と光っている。

 係員は、視力が法の規定に達しない者でも、一律に免許を取り上げるのではなく、
 最後に「総合判断」している。
 その上で、「この者に免許を与えることが適当でないと認めるときに再交付しない」としているらしいことを掴んだ。

 これで、ひと安心したものの、

 ちかごろは白内障が加わり、視力0.4では実際上運転が非常に危なくなっている。
 最近は、ガマ女が必ず助手席に座って、「危ない!来てる!」とウルサク言うようになった。

 視力0.4でも、お情けを頂けるのか?

 これが大問題であるところ、

 「そうだ、警察へ更新手続きに行ったときに、なんと言うかが勝負だ。
 係員が総合判断してくれるわけだから係員の心を動かす言葉を言わなくてはならない」

 「ちかごろは、女の人に必ず助手席で見張ってもらいながら運転しています。危ないときは、「危ない!来てる!」とか言ってくれます。その女の人は目が非常によく見える人で視力は1.5ある。
 つまり、オレの運転は、人工知能ロボットを助手席に配置して事故が起きないようにしているようなもの。
 その女の人も、自分が見張っていれば事故は起こらないと思っているようで、実際、彼女のかわいい孫までも私の運転するクルマに乗せていますよ」
 また、
 「3年前の免許更新のときも今と似たり寄ったりの視力だったけど、この3年間、事故は起きていない。
 さらに、
 「オレは認知症テストで86点の高得点だった。アタマの中は未だシッカリしている。
 トシをとってからの視力低下によって、実際上どういうふうに運転が危険になったか?を具体的に学習し、
 神経を集中して運転しています。

 助手席の女の人が自分のかわいい孫までもオレの運転するクルマに乗せるのだから何とかパスさせてください」

 そう言えばよいかなあ?

 本当は、

 「自分は今のところ、神によって事故は起きないのです」
 と言いたいんだけど、警察でこれを言うと、かえって「ウサン臭い人物」と思われるだろう、言わないことにしょう。

 いま、ネットで読んでくれている皆さんに向かって言うんだけど、

 私は今のところ、「助手席のガマ女と神によって事故は起きない」

 もともと、近頃ガマ女が助手席にいて「危ない!来てる!」と言うようになったのも、いつのまにやら、ひとりでに、こうなったもので、これによって私は間一髪の危ない場面でも事なきを得ている。

 まさに、
 神が助手席にガマ女を配置して、事故が起きないようにしてくれたのを感じます。

 視力が0.4にも落ちた私に、神がガマ女を助手席に配置してくれた!

 今朝も、ひとしお、神を感じる。

                   ( つづく )

 トシヨリから無理やり免許を取り上げるとトシヨリは無免許運転する。
 世の中乱れる。
 この辺の田舎では、できるだけ、ムリに免許を取り上げるのは避けたいようだよ。
 上述の私の必死の説得に、なんとか再交付してくれると思います。

 私の哲学による「神のパターン」から言っても、
 私には、この先、適応期があるはずで、私にクルマのない適応期は考えられない。

 私が免許を失うのは、免許がなくても何とか適応できる環境になってからだと思います。

 なお、
 白内障は手術できる病気です。目ん玉の濁った水晶体を透明なプラスチックのものに取り換える。
 でも、
 私の場合、眼の奥の視神経がイカレテいて、白内障がなかったときでも眼鏡をかけた両眼視力が0.5しかなかった。それが水晶体の濁りで少しだけ視力が落ちただけです。
 手術で、どれだけ視力が回復するものかハッキリしない。このたびの免許更新は、まず手術しないで臨んでみて、どうしてもダメとなったら手術しようと思っている。

    私が免許を失ってしまうのは、まだまだ先の話だと思います。

    それが、私の哲学で、わかる。


 (このたびの苦悩で獲得した哲学が、まだ語り切れていません。
 が、この日記は一か所に余りたくさん書くとパソコンの動きが鈍くなりそう。日を改めて書くことにしましょう)
 
 

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