哲学整理№01.「天災人災だらけの時代」を生きぬくこの一冊「仏心鬼心あわせもつ神」・・コロナ、ウクライナ惨禍経済制裁物価高不況、中国の台湾進攻、知床観光船沈没etc・・

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             ( つづく )
 私は2004年にこの哲学日記を書き始めたとき、「まず思いつくままに順不同で書いていって、あとで順序よく並べて一個の哲学体系としてまとめます」と言った。
 あれから18年も経ったんだ、ようけ(郷里の方言、たくさん)書いた。やっと、その公約を果たすべきときが来た。先日来、どういう順序で並べたらよいか、を考えているころです。
 私イチオシの名文、私自身読むたびに涙がにじむアニー・サリバンの物語がみつかったので、これを初版本の冒頭にもってこようと思う。
 これに続く数編とあわせて、ちょっと、ここにコピーしてみましょうか、(釣りの部分は省いて哲学のところだけ)
               ・・・・・・・・・・
 2020・07・11 編集

 この世の深淵をにらんで35年、ボクの哲学は「この世の一切は神によって合理的である」で始まるよ 

 さてと・・ここらで、これまでに書いてきた哲学をまとめてみようと思うんだけど・・私、この方面の才能がなくて・・どう書いていったらよいものやら・・
 このネットに書き始めたのは2004年01月、いまから16年まえになる。
 あのとき、私自身は、この世界観が世界の真実を正しくつかんでいることに自信があったものだから、「いずれ、この世界観の正しいことを証明して見せる」と大上段にふりかぶっていた。が結局、「科学の証明と言うほどのものは出来ません」となってお恥ずかしいかぎり。 このことが、ずーっと脳裏に引っかかっていた。だから比較的最近、数年前にも、このことを、どこかに書きました。

 いまは、「哲学というものは必ずしも、現時点で科学の証明はできなくていいんだ。それを導いた根拠なり経験なりを書いて、人々が、めいめい、ご自分の哲学をもつための参考にしていただければいい」という考えに落ち着いている。

 ともあれ、我れも早や85歳、衰えた。ここらで、これまで書いてきたものを、スッキリ整理してみようと思う。
 
                ( つづく )

 われわれ人間は、みんな、「主体性の機能」を付与されて創られており、めいめい勝手に動きますが、
 それにも拘わらず、神は、その途方もない能力によって全てを「仕組んでいる」。
 この世で起きること全てに、「神の心の現れたる整合性(まとまり、神のやり方、パターン)」がみられる。

 全ての人の一生は、「快・苦±ゼロで、みんな公平」、ひとりの例外もなく、だよ。
  (「快」、「苦」それぞれに大きさがありますが、それぞれの大きさに持続時間をかけた積分値,その総和、で、みんなの公平をはかっているんじゃないかな。神ともなると何か別の方法かもしれない。要するに、そんな感じの何らかの方法で、神は、みんなの公平をはかっているに違いないということです)

  神は、いろんな人生の人を創って、この世に豊かなドラマを創造しなければなりません。みんなが同じ長さの人生、同じ幸せ、というわけにはいかない。赤ん坊のときに死ぬ人は快・苦ともに殆どゼロ、長生きする人は、快を沢山享受できますが苦もトテモ大きくなります。

 大人まで生きさせてもらえる人は、だいたい皆、享受できる「快」の中に「生きがい=人生の深い満足」までも含まれるようですが、その代償としての「苦」は耐えがたく大きい。
 同じ長さの人生でも、快・苦ともに大きい人とか快・苦ともに小さい人とかがいるでしょう。

 何にしても、みんな「快・苦±ゼロで公平」、誰がとくに幸せとか誰がとくに不幸ということはない。


 人生は、我々一人一人が自分ならではの個性ある花を咲かせる、それが人生でしょう。
  
 偉大な人生、とびっきり大きな花を咲かせたい人は、大きな夢を抱いて、人並みをはるかに超える大変な苦しみに耐えて頑張ればよいのだし、人それぞれ、自分の身の丈に合った人生を送ればいい。

 おとなまで生きさせてもらえる人は、だいたい皆、享受できる「快」の中に生きがい=自分の人生に深い満足、までも含まれるようですが。その代償として余儀なくされる苦しみは耐えがたく大きい。

 何にしても「生きがい」は、主観的なもので、ただその人が、そのことに深い満足を覚えるだけのもの。
 平凡な人生の人でも、それぞれに、ご自分の人生に深い満足の部分が含まれている。
 子供を産み育てたというだけでも、深い生きがいを覚える人もいる。


 今は、この世の根源に鎮まっておられるのかな、神様はホントに立派なお方であって、本当に良かったですね。

 すべての人を公平にしてくれています。

         ( つづく )

 全ての人を神が面倒を見てくれているのだもの、
 「ムダな苦しみというものは存在しない」

 若いころは、いろいろ、つらいことがありますが、
 苦しんだ分は必ず将来の「快」となって跳ね返ってくる。

 将来、偉大な人物となって大感動をみたければ、トコトン苦しみに耐える一手だ(もちろん、ちょくちょくストレス発散しながら、ね)。

 「苦しみは必ず報われる」

            ・・・・・・・・・

 むかしアメリカに、アニー・サリバンという女の子がいた。

 日本で言えば明治の初めの頃のことです。お父さんはアイルランドからの移民で農民。農民といっても「農奴」のような感じかな、極貧、飲んだくれ、不衛生な生活環境だったらしくてアニーは3歳のときに目の病気トラコーマになった。9歳のとき母親が死、父親は育児放棄、アニーと弟のジミーを救貧院へ預けた。ジミーは結核にかかっており、ほどなく死んだ。アニーも眼が悪化して失明していた。
 最愛の弟のなきがらを前にして、自分も全く盲目、アニーは生きる希望を失った。食べることを拒み、「うつ」、誰に対しても心を閉ざした。
(皆さんの無神論だったら、ここでアニーの一生は終わってしまうところ。この世は、そんな浅薄には出来ていない。
 のちに解るように、アニーは、目が見えない耳も聞こえない言葉もしゃべれないヘレンケラーをみごと世界の偉人にまで育て上げられるという大きな可能性を秘めていたのである。神はアニーの命を途中でボツにしたりしない)

 神の使い現れる!
 救貧院のおばさんがアニーを憐れんで、毎日キリストの教えを説いた。
 アニーは、だんだん心を開いていった。
 
 14歳のとき救貧院を訪れた役人に、アニーは「学校へ行かせてください」と懇願。これが聞き届けられてパーキンス盲学校へ入ることになる。
 (このあたりからは、神が次々とアニーに良いことをしてくれるようになっています)

 目の方も、何度か手術して、字がどうにかギリギリ読めるまでになった。
 (実は、まさに、このアニー自身の、見えなかった目が見えるようになった経験が、のちに三重苦のヘレンケラーを世界の偉人にまで育て上げることが出来たカナメになっているのです。アニーの目が奇跡的に、どうにか見えるようになったことほど、神なこともない)
 
                 ( つづく )

 アニーは盲学校で一生懸命勉強して20歳のときに首席で卒業した。卒業式では卒業生総代としてスピーチを行った。
(これも神がそうさせたのです。この経験によってアニーは「ガンバれば人の上に立てる」ことを知った、ガンバリ屋のアニーが形成された。これがのちにヘレンケラーを世界の指導者までも育てられた原因の一つになっている)

 さらに神は、アニーが盲学校在学中にローラ・ブリッジマンという目も見えない耳も聞こえない女性と友だちにならせている。
 手のひらに指文字を書いて会話をした。
 この経験があったからこそ、のちにアニーがヘレンの家庭教師になったとき、すんなりと教えられたのである。
 
 みよ、これが神の創作だ。
 神は、三重苦のヘレンケラーを創造するにあたって、あらかじめ準備周到、アニーサリバンをバッチリ、ヘレンをうまく育てられるよう、しかるべく育てている。
                  ( つづく )

 目も見えない耳も聞こえない言葉もしゃべれない三重苦のヘレンケラーが、どのように育てられ世界の偉人にまでなれたか?は、およそ人間の超限界例なもんだから、ありふれたことでは叶わない。
 この物語には神が凝集している。
 この物語に触れると、この世に神がいることが解る。
 無神論は間違いだ。

 アニーサリバンが20歳ほどでパーキンス盲学校を卒業したときヘレンは7歳だった。鼻のテッペンがちょっと上向きにそった超かわいい女の子だった。なにしろ言葉が通じないものだから両親はヘレンをしつけることが出来ず我がままいっぱい、お手上げだった。

 と、そのときだ、まさしく神の采配、
 盲学校を卒業したばかりのアニーがヘレンの家庭教師として迎えられることになる。

 「アニー・サリバン先生」の誕生である。

 アニーは単に先生としてだけではなく自分の全てをヘレンにささげた。
 二人の関係は以後50年、アニーが70歳でなくなるまで続いた。
 後年、ヘレンケラーは、「わたしの全てはアニー先生に負うている」と語っている。

 アニー・サリバンが求めたのは、ただヘレンを愛することだけだった、ほかは何にも求めなかった。

 ヘレンは20歳でハーバード大学に入学、24歳の卒業のときは大学の講堂でスピーチをした。なんと、三重苦でも発声法を学んで何とかしゃべれるまでになっていたのである。スピーチが終わって講堂中に大拍手喝采が起きたとき、アニーサリバン先生も、どんなに感激、涙があふれたことだろう!

 アニーサリバンは生涯をヘレンの幸せのためにささげた。
 ただ一途にヘレンを愛して心底、骨の髄から幸せだった。

 みよ、これが私の哲学で言うところの、
 少女時代に、この世でただ一人、最愛の弟ジミーに死なれ自分も眼が見えなくなって生きる希望を失った、その言語に絶する苦悶絶望の代償である。
 
 アニーの一生は、私の哲学が唱える「快・苦±ゼロ」の形をなしている。
   (一生のうちには沢山の快・苦があったでしょうが、おおどころは±ゼロの形になっているじゃないですか、ということ)

             ・・・・・

 よかったですね、アニーが少女時代に、最愛の弟に死なれ自分も全盲になって生きる希望を失った、食べることを拒み、誰に対しても心を閉ざした、死ぬことを考えた、あの時点で死んでしまったりしないで本当によかった。

 「この世に不合理が存在する」と断定的にいう西洋の偉い先生の無神論が正しいとすれば、アニーはタマタマ偶然、運がよかったから生き延びられて人生の生きがいを享受できたことになる。
 普通なら、あの絶望に陥った少女時代に死んでしまった可能性も十分あるというのである。

 「およそ人間として、この世に生を受け、自分に何の責任もないのに、幸福な一生を送れる人と不幸なまま一生を終わる人とがいるというような、 
 そんな不公平は、あってはならない。
 絶対にあってはならぬ」

 「この世は神によって道理にある」

 「この世に、絶対に起きてはならないことは起きない」

    この世は、多くの皆さんが考えているような、お粗末なつくりではない。
    この世は、奥深くできている。
    神は、多くの皆さんが心配しているような無能なお方ではない。
    神は、われわれ生きとし生ける全てのものが全生命をゆだねられる
      途方もない能力をもった
      立派なお方だ。
   (この世に「悲惨が存在する問題」については、のちに述べます)

 アニーはあの時点では死なない。神によって堅固に守られていた。

 のみならずアニーは、のちに生まれてくる三重苦のヘレンケラーを世界の偉人にまで育てあげげられる大きな可能性を秘めていた。
 神は、ヘレンケラーの助っ人としてアニーを育てているのだ。

 アニーが死んだらヘレンを育てる計画も崩れる。

 花が死んだら蝶も死ぬ。

 決して、あの時点でアニーが死んでしまうことはない。
 一見おぼつかなく見えるアニーの命は、神によって堅固に守られていた。
 アニーは、あの時点では死なない。

 アニーの人生はあの絶望のときがドン底(反転ポイント)だった。

 あののちは、神の仏心微笑みだして、次々と良いことが起きた。

 なんと、目が手術によって、どうにか見えるようになり、盲学校を首席で卒業、ヘレンケラーの家庭教師になるetc・・ヘレンを偉大な指導者にまで育てられて、心底、人生の幸せを得た。

 この世のつくりは、そのように奥深いもの。無神論の皆さんが思っているような浅薄なものではない。

 ひるがえって、私自身の人生のドン底もアニーと似たパターンなんだ。だから、こののちの経過もアニーと同様、幸せになれると思っているんだけど、長くなったから、これについては日を改めて書くことにしよう。
 また、この世に悲惨が存在すること(神の鬼性)についても、最後までには言及します。

         ・・・・・・・・・

   引き続いて

 2020・07・21 編集

 「PARTⅡ 私も万策尽きた絶望の淵から蘇った」


 この「私の哲学の根拠」が、しっかり書けるか、それが勝負だ。
 が、あんまりリキんでもペンが進まない。気楽に思いつくままに、あれこれ書いていこう。

 さっそく、話が、それますが、辞書を引くと、
   「概念」とは、思惟によって、その内容がハッキリ決められた語の意味
 とある。
 とすると、前回(10日前)の文の冒頭に書いた

 「この世は、われわれ人間がめいめい主体的にに動くものでありながら、それでいて、神が全てを仕組んでいる」
 
 において、私は、
 「この世のつくり」が、どういうものであるか、について、
 これまで人々が到底思いつかなかった「全く新しい概念を提唱した」
 という言い方をしても、あながち間違ってもいないんじゃないですか?
 「新しい考え方を提唱した」と言えば間違いなかろうが、ムリに短縮して「概念」と言えないかなあ、ということです。

 この世は人々が勝手に動いているものなのに、それを鳥瞰すると神の秩序にあるなんて、これまでの人たちは到底思いつかなかったのでしょう。

 自慢話は、たいがいにして早く、その根拠を言え、だって?

 ん・・・
 
 成人式で晴れやかに着飾ったお嬢さんが、
 「お母さん、わたしを生んでくれてありがとう」
 と言うのを聞いたことがありますが、

 お母さんは、ただ、自分が創られている性質に従って気持ちの良いことをしただけ。そうしたら、ひとりでに、あなたが出てきた。
 根本的にあなたを創ったのは、お母さんお父さんを、そのように創った、この世の根源(神)でしょう。
 お父さんとお母さんの出会いだって神の計らいが決定的だ。

 親に感謝するのもいいが、何よりもこの世の根源、神に感謝しなくちゃ。
   だけど神は、そのうち、あなたにヒドイことをしますよ 
 神は、人生の長い人も短い人も、いろいろ創って、この世に豊かなドラマを展開しなければなりません。
 そうして神は全ての人の生みの親だから、みんなを公平にしなければならないのです。赤ん坊のときに死んだ人とあなたを公平にするために、あなたに一つ幸せを与えると不幸も一つ与えなければならないのです。

              ( つづく )

 いまから35年まえ1985年熱い夏、女房を海外旅行のために空港まで送ったあと、私は南房総・勝浦港へ向かっていた。
 「あーあ、自分は何をやっても悉くダメになる。50歳になる今まで、女房にもいいところを見せようと、いろいろガンバってきたのに何にも実らない。全部途中で挫折した。
 私が人間的に至らない点があるにしても極端ではない筈。たいして能のない人でも、みんな、やすやすと適応できている。

 万策尽きた、もうやることない。
  (あとのない崖っぷち、絶望の淵に立っていた)
  (ふと)
 もしかすると、神が、わざと、私を適応することから遠ざけているんじゃないか?
 そうとしか考えられない。
 だとすると、最後にドンと、ありがたいことをしてくれるんじゃないか?」

 ワラをもつかむ思いで、そんなことが脳裏によぎったりした。

 私は何故か、心の深いところで、この世に神がいて全てをを支配しているのだったら、デタラメなお方ではなく、ちゃんとしたお方、みんなを公平に扱ってくれるお方、一生懸命頑張って生きる者には、それ相応にホービをくれるお方だと思っていた。

 こんなことを考えながら勝浦港に着いた。
 大勢の人が夜の岸壁でアジ釣りをやっていた。

 神が現れた。

               ( つづく )

 夜の港の岸壁で大勢の人がズラーッと並んで釣るアジ釣りだったのですが、

 一切が、一人一人の動きが、神が創作したドラマのようだった。
 すべてが神の心の現れだった。

 神は、一人の人に、ひとしきり、アジを釣らせたあと仕掛けをグジャグジャに絡めて釣れなくし、今度は隣の人に釣らせた。その人も何匹か釣れるとゴミが流れてきて釣れなくなった。
 二人連れがやってきて「どこで釣ろうか」と思案していたとき、そばの人が釣り上げた。それを見た二人連れが、その人のそばで釣ることにした。
 私は、神が二人連れに対して「ここで釣れ」と言ったように思った。

 などなど・・・以下、2004年の書き始めに詳しく書いてあります。

 これが私に「仏心鬼心あわせもつ神」が閃いた原初的体験です。

 この世は途方もない能力をもった神がを全てを支配していて、われわれ一人一人に、魚を釣らせたり釣れなくさせたりしているのを見た。湾内を流れるゴミの流れ具合さえも支配、人の心の動きさえも神の秩序に組み込まれているようだった。

 初めは「単なる幻想だったのではないか」という思いもあったが、以来35年、「本当に間違いないのか?」を問いつづけ、また、いろいろ補充して、
 今日見る一個の哲学体系が出来上がった。

 もう、この哲学が揺らぐことはない。

 あの原初的体験があった日は、私が50年も一生懸命生きてきて、なのに何にも実を結ばず、「もうすることがない」万策尽きた崖っぷちで起きた。
 そのこと自体が、あれが単なる幻想ではないこと、あれが私の人生,ドン底からの反転ポイントであること、神がようやく、私を救う過程に入ったことを示している、と考えるようになっている。

 アニーサリバンの例も、最愛の弟ジミーに死なれ、自分も眼が見えなくなって生きる希望を失った、あのときがドン底、反転ポイント、あれを境にして神が次々と有難いことをしてくれるようになったじゃないですか。

 彼女のケースと私のケースは、ひとしく神の心の現れとして共通のものがあるのを感じる。

 あの日、私が夜の勝浦で見たものは単なる幻想なんかではない。
 50歳になるまでも一生懸命生きたのに何にも実を結ばず、もうあとのない私に対して、あの時点から神が救いに入ったんだ。
 世界一不適応の期間が長かった私に対して、いよいよ、とびっきりの賜物を与え始めたのがあの日の経験だと思っている。

                ( つづく )
 ほかにも「私の哲学の根拠」がある。

 アニーサリバン先生とヘレンケラーの話を読むと、両人のドラマは、ヘレンが生まれる前からの、二人が出会う前からの、神による綿密な設計にかかると思われる。そうでないと、余りにも奇跡、タイミングのいい出会いなどが次々と出てきて、「これはもう、偶然、タマタマでは、こんなこと、ありえない」と思います。神が創造したのでない限り、こんなにも沢山の要素が揃うことはあり得ないと思うようになります。

 この世に起きること全てが、このように神が綿密に設計したものじゃないかな?

 私にこの「全く新しい哲学」が生まれた経緯を振り返ると、
 私の子供の頃から、すでに仕組まれていた。

 ① 子供の頃、釣り竿をかついで畑の中を歩きながら、「もしも、この世に人間がいなかったら、こうやってチョウチョが飛び交い、毎日お日さまが東からのぼって西へ沈むのに、このことを誰も知らない」、このことが不思議だった。誰も知らないまま、こんなものが存在しつづけることが奇異に思えたのです。
 ② また、織田信長の比叡山焼き討ち老若男女皆殺しの話をきいたとき、「信長よりも偉い人はいないのか?」こんな悪い人が、この世の一番偉い人であることに、たまらない思いをしたことを覚えている。

 このときだ、私は、「この世の深いところを喝破して世界一偉い人になりたい」と思った。

 ③ それから、客観的事実でなくて申し訳ないが、私は、いささか人の心に対する感性が鋭かったと思う。これも、あの夜、神の心を「ありありと感じた」原因になっていると思います。

 ④ 四つ目のこととして、私は長期に及ぶ不適応期の苦しみによって、あの勝浦の原初的体験があった頃には「道理公平」の感覚が深まっていたと思います。それで、
 「切なる公平への願い」から、「全ての人の一生は快・苦±ゼロでみんな公平」の、この世の一大根本原理が生まれた。

 以上、アニーサリバンとヘレンケラーの物語の場合と同じく、私の哲学誕生の経緯も、私の子供時代から、すでに神の用意周到、綿密な計画があったのを感じます。
 なんと、この哲学の核心部分である「この世の深奥を捉えた哲学」「神の支配」「神の心の感得」「道理公平への叫び」「快・苦±ゼロで皆公平」といった哲学の内容さえも、神から頂いたものであることを感じます。
 
 こんなにも、タマタマ偶然とは思えない多くの条件の揃えによって、神が私に新しい哲学をなさしめたのを感じます。
    大きな賜物をもらう代償として、世界一不適応期が長く、世界一苦しんだ、
    ちゃんと、道理のパターンに入っている、

 こうして頂いた哲学が、スカタンである筈がない。
   私は、人類史上未曾有の哲学をなした。
            ・・・・・・・・
 もちろん、私の哲学を多くの事例に当てはめてみて食い違いを感じない、ということも、私がこの哲学に自信を抱く理由になっています。
 ヘレンケラーとアニーサリバン先生の事例なんかは、まさしく、ピタリ、私の哲学が言うとおりになっている。
 私の哲学の誕生とは全く別に、このようなヘレンとアニーの「神なくしてはあり得ない事例、しかも仏心鬼心あわせもつ神の事例」が存在することが「私の哲学の確かな証明」になっている。
 (いや、ひとに向かって科学的証明ができたとまでは言えませんね。が、自分自身が信じられる根拠にはなっている。
  それが何よりだ。自分が信じられるために、自分の行動規範として人生を生きる指針と出来ている)


 ( まだ、この世に悲惨が存在する問題が書けていませんが、長くなりすぎた。日を改めて書きましょう )

               ・・・・・・・・・・・・

   最後に、「この世に悲惨が存在する理由」

   2020・08・03 編集

   「神はお化け屋敷、人を怖がらせるのが得意」

 さて、「この世には、こんなにも悲惨なできごとが次々に起こるのに、それでも全てが合理的と言えるのか?」について。
 
 まず何といっても、一つには、人間がここまで進化して人間の「快」が、こんなにも大きく、沢山になりすぎた、これに伴って、「快苦±ゼロで皆公平」の原理上、人間の「苦」も、現実に見る通り大きく、多く、ならざるを得なくなった、これで「快」「苦」が釣り合っているというのでしょう。つまり、人間を生きて諸々の幸せを享受する代償が、それほども高いのだ、人生は厳しい、ということ。
 そういうこと(人生は一般の人が考えているようには甘くないということ)が根本にあって、
 さらに、アニーサリバンの例だと、この子がヒドイ貧困家庭に生まれて不衛生な生活環境のなか3歳で目の病気トラコーマにかかった。アニー9歳のとき母が死に父親は育児放棄、弟とともに救貧院へ送られた。弟は結核にかかっており、間もなく死んだ。アニーも失明していた。
 最愛の弟の亡骸を前にアニーも眼が見えない。生きる希望を失って泣き崩れるアニーを見て、人は、「かわいそうに・・この世には神も仏もいない。どこのバカが、この世は全て合理的なんて言ってるんだ!」と私をバカ扱いしたにちがいない。

 だが見よ。その後の経過は私の勝利だった。(すでに何度も書いたから詳しくは繰り返さないが)
 
 アニーのその後は、救貧院の女性による懸命のキリスト教説得から始まって数々の神による救いの手が差し伸べられ、アニー・サリバンは三重苦のヘレンケラーを世界の偉人にまで育て上げるという感動の人生を送っている。

 私を嘲った人が間違っていたのは、
 ただ目の前にある惨状だけをみて「この世は合理的でない」と言ったこと、その後に何が起きるかを知らないでモノを言ったことによる。

 この世に起きることは、時間軸上の長いスパンでモノを見なければならない。そうすれば、この世は合理的にできていることが解る。

               ( つづく )

 さらに、人々は外観のヒドイ惨状からだけで、「こんなにヒドイことが起こるんだから神なんかいるわけがない」と思いがちじゃないですか?
 だけど、パッと見た目のヒドイ惨状と、実際に、その人が、どれほど苦しんでいるかは、兎角、大きく食い違っているものだと思います。
 むかし長崎市長が右翼にピストルで撃たれて弾が胸を貫通、倒れ、大量の出血をみたことがあった。
 さぞ、目を背ける光景だったろうに、奇跡的に死なず、のちに新聞に寄稿して、あの時は苦しかったとか痛かったとか恐ろしかったとかは言っていませんでしたよ。その他、この手の奇跡的生還の体験談は数知れず、みんな口々に、恐怖も苦痛もなかったと言っている。

 外観と内面は峻別されなければならない。

 特に子供なんかは、外観の恐ろしさだけから、
 「ボク生まれてこない方がよかった」
 父親、「どうして?」
 少年、「だってボク、死ぬの怖いもん」

 つまり、外観の恐ろしさだけからモノを言っている。

 まあ、神としては将来に可能性を秘めた子供には強く生きてもらわなければ困るから、死を大変怖がるように創ってあるのでしょう。無理もない。子供が死を怖がらずに、やすやすと死んでいっては困る。
 それに対して、私が福祉施設のフロで顔を合わせる老人たち、人生、やりたいことは、みな、やってしまった人たちは、みんな、お迎えが来るのを恬淡とした心境で待っているようだよ。べつに死ぬのが怖いとも言っていない。

 神が、うまいこと創ってある。
 将来に可能性を秘めた若者には大きな苦しみに耐えて強く生きてもらわなくては困るから、死を大変怖がらせる。一方、花を咲かせ終わって死ぬべきときが近づいた老人は死をあんまり怖がらなくなる。
 神が、うまいこと創ってある。
 若いころ、死の恐怖を乗りこえられなくてもいいんだ。
 神が、未来のある若者には、強く生きよ、とて死を怖がらせているんだから。

 さらには、こういうこともあるよ。
 人間一人一人、「独特の苦痛耐性」というものがあるのです。神は、その人間一人一人がもつ独特の苦痛耐性を前提に、その人に苦痛を与える。
 江戸時代に長崎のキリシタンが何人も一緒に逆さづりの刑に処せられたことがある。
 あなたは、そんな恐ろしい目にあうなんて到底耐えられないと思いますが、信仰熱いキリスト教徒、しかも仲間と一緒なら苦しみ恐怖が限度を越さない、また神が、しかるべく、そう創ってある。逆さに吊るされたとたんに気を失うとか。
 あなたが、あんなムゴイ仕打ちに到底耐えられないと思っても、あなたが、ああいう目に合うんじゃないんだ。彼らなら耐えられる。


 私は、神とはどういうお方か、を考え続けて35年、

 神は、メチャ凄い能力をもった、
    道理に即した立派なお方だ。

 もちろん神は、人間の苦しみ、痛みが、よくわかっている。
 実際に死んでゆく者に対して耐えがたい苦しみ痛みなんか課すお方ではない。

 現代の人類、こんなに科学が進歩したのに、未だ死の苦しみ痛みを測定する機器がありません。

 上記のように、神とはどういうお方か、を究め、その人となり(神となり)から死の苦しみを推測するほかありませんが、

 まあ、神にゆだねましょう。
 神が途方もない能力をもっていること、人格的にも(神格的にも)立派なお方であることは解っているのですから。
 



 


 
 
 
 
 

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