№9 経済学への快苦主観要件の導入(2004・02・21記) ほか

           経済学への快苦主観要件の導入
                 at 2004 02/21 08:26 編集

 ひと昔前、アメリカの学者の「1990年大恐慌説」 というのが出た。 結局あたらなかったのだが、根拠が大まかな波なのに、それに精度があると思ったところに無理があったのではないか。彼が言ったことに精度がなかったとしても、完全に間違っていたわけではない。これから、おそらく世界の経済に、ヘンな事がおきるだろう。今すぐと言うのじゃないよ。私の哲学で解ることも、ごく大まかなパターンだ。細かい事は解らない。

 従来なら、あの先生が言ったように、1990年代あたりに、ひどい不況が来るところだったのではないですか?然るに今回は、意外や意外、昨日の新聞にも載っていたように、偶々と言うべきか、半導体、コンピューター、インターネット、携帯電話と続く技術革新が、さらには薄型テレビやDVDレコーダーなどのデジタル家電へ発展していこうとしており、技術革新はとどまる所を知らない。経済成長率が瞬間風速7パーセントといっている。

 まことに好不況の波は、過去に起きたのとは同じようなパターンにはならないものなんですね。

 そう、景気がまだ極端には悪くならないわけはもうひとつある。前にも書いた事なんだが、為政者が、過去の大不況から「下手に学んで」やたらカネをばら撒き続けていること。過去の例では、ニューディール政策の公共工事とかで何とか景気を回復しようといろいろやった末に、最後の手段として(戦争が始まって)カネをばら撒いたとたんに、景気が上向いてきたのだと思う。

 しかし彼らはカネをばら撒くタイミングが大事である事を知らない。ばら撒く前に人々が大きく苦しまなければならない事を知らない。人間には、大きな、大きな苦しみが必要である事を知らない。無理もない。彼らには私の哲学がないのだ。経済学や政治も、私の哲学における、快苦の原理、快苦といった主観の要件の導入なしに、ブレイクスルーはない。

 そう、なんと、「経済学の法則にも快苦の主観の要件を導入しなければならない」 のである。


           快楽の上に快楽を架す政策、世の中乱れる
                   at 2004 02/22 06:30 編集

 私はこの哲学の書き始めに、「人間現象に合理的秩序(精緻なそれ)を見つけた」と言った。
 だがこの、人間現象に合理的秩序を見つけるには、なんと、「アウシュビッツも合理的」「世界貿易センター爆破事件も合理的」「ヒットラーも神の子、テロ犯も神の子」 というような、血を吐くにも似た言葉を言えなくてはならない。
 この世の一切に合理性を見出しうるためには、日本の昔の、いつでも腹をかききって死ねる勇気あるサムライでなければならなかったのである。
 
 アウシュのユダヤ人のような目にあうこと、また肉親をテロによって殺された人たちの悲痛な叫び・・・あれが普通の人間を生きて諸々の願いをかなえ、諸々の快楽を享受する代償に他ならない。

 例外はありませんよ。神がやっていることなんだもの。そりゃあ、人によって、貰いの大きい人と小さい人とがある、それに伴って受忍しなければならない苦痛にも差があるわけですが、基本的に、普通の人生の人なら、だいたい、ユダヤ人程度は免れない。ポックリ死ぬ人がいるのは、そりゃあもう死ぬ瞬間だけがポックリ。そこに至るまでの間に、得たる快楽を苦で支払って帳尻を合わせている。
 このことに例外がない事については、のちに、「神の能力はどれくらいか」 「神による<厳密な>支配」 のところで述べる。

 人生は厳しいんだ。あまりにも厳しい。みんなアウシュのユダヤ人程度を覚悟しておかなければならない。

 しかし一方、みんな公平で、ここに一つのクリスタルな感じがあり、安堵感がある。苦痛の分は楽しんだのだから・・・道理は厳しいが、透明感と安堵感がある。(なおこの、「公平」というのは、前にも言ったが、はた目にみて、その人が豪勢な暮らしをしているとか、はた目にみて、その人が気の毒な状態にあるとかで測るのではなくて、あくまでも、その人が、内心でどう感じているかという主観が基準だよ。人それぞれの主観を基準にして、みんなの公平が図られる。)

 ひとたびバブル期のようなことがあると、大変な苦痛期に入るのが、神のパターンではないか、と私の話は続いていくんだけど、また明日ね、今日はこれから囲碁の大会がある。








           
            

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