№218 義経が鞍馬から奥州へ行くことになった機縁こそ神(2005・04・29記)ほか

2005年04月29日
 義経が鞍馬から奥州へ行くことになった機縁こそ神!

 子供のときに京の山中にある鞍馬寺へ預けられた義経が、ある程度成長した時点で、タイミングよく正門坊という坊さんが現れ、自分の素性が源氏の子であることを知らされた。
 以来、義経は怨念を晴らすべく武芸に励むことになる。この正門坊との出会いなんかも神ですね。

 そしてさらに格別に神なのは、吉次という黄金商人との出会い。この、まことに不思議な出会いによって、義経は奥州の秀衡を頼って行くことになる。

 吉次との出会いはタイミング絶妙の神、
 これがなければ、義経は夜な夜な寺を抜け出して武芸に励んでいるのが寺の住職にばれて、危うく剃髪させられ坊さんの道を歩ませられるところだった。

 そうなる寸前に吉次が現れた。
 吉次と会ったその翌日に、即、奥州行きとなった。
 吉次という人は、京と奥州を行き来して金の商いをしていた人。藤原秀衡にもよく通じていた。

 義経すでに16歳、もう鞍馬寺では義経を入るるに器が小さい。一人で天狗やモノノケを相手にエイヤッの練習をするだけでは、優れたサムライとなるのに限界があろう。
 子供の時からの山の暮らしで足腰を鍛え動物的機敏さを身につけた。次は、馬に乗り弓矢を放つなどの、本格的なサムライの武術を身につけなければならない。

 ということで、神は、タイミングよく義経を奥州の武士のもとへ送った。そこで義経は、源氏の武将として平家を倒せるに足る武芸を磨いたのである。

 このように、
 人生はまことに不思議な「出会い」によって展開していくもの。
 出会いはみんな神の采配よ。

 義経は、神によって平家を倒す役割を与えられて創られている。
 不思議な機縁あって全てがそちらの方へ足並みを揃えている。

 義経の母が、平清盛に懇願して義経は殺されずにすみましたね。これだって不思議な機縁だ。以下、次々と・・・平家を倒すまでは義経の命は神によって支えられる。途中で殺されたりしない。

 
 「神は、この世の全てのものの配置関係、導き、出会いを支配している。」

 私も、不思議な機縁あって女房と出会い、生活を支えられた。マルクスにはエンゲルス、昨日書いたゴッホに弟テオがいたということも、まことに神ですね。

 こんな例に限らない。この世の全部が神だ。



2005年04月30日
 義経壇ノ浦以後・・神に殺される過程に入ったらどうにもならない

 平家を滅ぼすまでは、だいたい何もかも義経にとって、よい方に作用したものが、
 壇ノ浦で平家を滅ぼし、その後しばらく京でモテモテの時期があった後、急に何もかもうまくいかなくなった。

 神の力が、その双方に、強力に作用しているのを感じる。

 「人はそれぞれ、ある特定の役割を与えられて、この世に創られる。」

 義経には、格別そのことを感じますね。平家を倒す役割。
 子供の頃、山の中のお寺に預けられて山中を飛び跳ね、強靭な足腰と動物的機敏さを身につけ、16歳にまで成長したところで、不思議な機縁あって奥州の武将のもとで、馬、弓矢の武術を習うことになった。
 
 「神は人を育てる」

 神が、義経を、平家を倒せるにたる武将に育てあげた。何もかもが、その方向に足並みを揃えている。正門坊や吉次との不思議な出会い、

 また、平家の支配の及ばぬ奥州の地に藤原氏がいたということ自体が不思議なもので、

 「この世の配置関係は、全て神が支配している。」

 もしも藤原氏が存在しなくて、全国を平家が完全に支配していたら、義経はあのような武将になる道がなかったでしょう。
 奥州に藤原秀衡がいたということ自体が神による配置だし、吉次との不思議な出会い、導きがあって、義経は秀衡と出合った。

 さらに、いくさが始まってからも、一般の人の考えのように、義経が優れていたから(それだけで)、あのように次々と勝利していったと考えるのは正しくない。

 確かに義経は優れた武将だっただろうが、それプラス、
 個々の戦いで、
 義経軍が勝てるように、神が仕組んだ、ということが大きいのです。

 何もかもが、義経の思惑通りにいくように、神が仕組んだ。個々のいくさの諸条件が、ちょうど義経がこれまでに培った能力で、うまくいくように神がちゃんと、しつらえてあったのです。

 ひよどり越えを下る作戦なんかも、ちょうど義経がうまくやれるように神が仕組んだもの。
 壇ノ浦でも、禁じ手とされていた船頭を弓矢で射る方法を、義経が思いついて勝利できたということも、神の創作。これが、もしも、何か事情が違っていたとしたら義経もうまくいかなかったでしょう。
 
 このように、平家を倒させる所までは、神は、義経を育て、戦いに勝たせ、大いなる勝利の感激を与えてやるのですが、

 神は、そう義経ばっかりに、いい思いをさせるわけにはいかない。みんなを公平に扱わなければならない。

 神は義経に平家打倒の目的を果たさせ大勝利の喜びを与えるや、今度は義経に苦痛を与えて、他の者との公平をはかる過程に入った。

 相次ぐ勝利の大いなる感動や、その後の都の人たちにモテモテの喜び、静御前を抱く快感などを、
 全部打ち消すにたる苦痛を与えないと、この世の全ての人(動物も含めて)の間に公平を図れませんから、
 それはそれはもう、義経の苦しみは大変大きなもの、長期にわたるものにならざるを得ません。

 いくさの最中に義経が梶原景時らに示した傲慢な態度。勝利に次ぐ勝利で義経は傲慢になっていたのでしょう、頼朝を無視して朝廷から高い位をもらったりした。また頼朝の地位自体が、関東の豪族の支持の上に成り立っていて、
 義経が江ノ島のそばの腰越まできて、頼朝に会ってもらえず書いた手紙、「兄に対して、二心を抱いていない・・・」についても、本来、兄弟関係だけのことだったら、頼朝は義経に会ったんじゃないかな。兄弟とはそういうものでしょう。景時などの他の豪族と詮議して決めなければならなかったから、会わない、となったんじゃないか。

 仕方なく京に戻ってからも、そういうことなら戦おう、としたのですが、兵が集まらず、船で、あれは四国へ逃れようとしたの?何という不運、風で船が摂津へ押し戻されてしまった。

 奥州まで、どうにか逃れられたものの、これまた何という不運、頼りにしていた秀衡が死んでしまった。頼朝のいうことをきいた泰衡に攻められて、自刃。

 このように、これまで神にもらった快楽を苦で償って死んでいく過程に入ると、もう人間の力では、どうにもならない。

 短く駆け抜けた一生でしたね。
 16歳の時に奥州へ向かい、21歳で頼朝のもとへ、その後4~5年は、勝利が相次ぐ、いい時代だった。そのあとの4年間が崩壊過程。崩壊過程といっても、その間に、気持ちの安らぐ時もあってのことですが、

 30か31歳で死んだ。

 人生は、いい時は短いですね。

 とくに、この義経のように、勝利の大いなる感動をもらった人の人生は、その代償としての苦悩が格別厳しくならざるを得ないようです。

 
 なお今コメントをみると、いろいろと質問ないしは疑問を提示されています。「人間の主体性と神の秩序との関係」とか、「私の哲学によれば人間は努力をしても、しなくても一緒か?」などの問題については、去年2004年1月に、このCafeに書き始めて以来、さんざん書いてきました。そちらの方を読んでください。

 


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