人類史上初めて、神の戦慄すべき能力を垣間見た男

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 「神の能力がどれぐらいかについては、信じられるほどのものは信じるべきではなく、信じられないものを信じるべきである」
 
 私が2004年3月中旬に、この哲学の原初的体験を語ったとき、その体験は余りにも魚釣りの特殊な場面での出来事で、しかも釣技の細かいことに関することだから、一般の人には説明しにくい、として省いた部分がありました。
 しかし昨日ノートの方の日記を読んでいて、釣りが房総・勝浦から埼玉・元荒川の方へ移った(一昨日の文に書きました)ときに、また出てきた。
 少々込み入った話で今の世には理解されないかもしれない。が、少なくとも私自身のための日記として、あるいは将来、哲学仲間が出来たときに語り合う材料として、ここに書いておきたい。上の写真(下図)のことです、ちょっと見にくいと思いますが。
(画像をクリックして頂きますと拡大されて見やすいです。更にもう一回クリックすると、なおさら大きくなります)

 まず、省いた勝浦港での経験から話しましょうか。写真のイ、ロの仕掛けについて。港の中でのアジの夜釣り。大勢の人が並んで釣っている。一人ひとりがカンテラ(灯り)をつけて。一人の人が、よく釣れていた。私は自分の釣りは終わって、その人のうしろで見ていた。ほとんど入れ食い。仕掛けは写真イのようなもの。エサはアミというエビの小さいのをつけている。
 と、二人の釣り人がやってきて、その人の隣に立ち、ここで釣ろうか、どうしようかと思案していた。その瞬間、釣れている人が釣った。これを見て二人の人は、その隣に腰をおろして、そこで釣ることにした。
 神の、二人連れに対して「ここで釣れ」という誘致の役目が終わったのだろう、また、釣れていた人には、もう十分釣らせてやったのだろう、あれだけ釣れていたのが釣れなくなった。
 彼は釣れなくなったものだから、何やら仕掛けを見ている。仕掛けがロ図のように、ハリスがオモリのところに絡んでいた。ちょっと、ほどこうとしたが簡単にはほどけない。彼は、ちゃんと新しく作り直すのは面倒だし、またこれぐらいのことで釣果に影響はないと思ったのだろう、そのまま釣りを続行。いつまでも釣れなかった。ずーっと釣れなかった。
 神は、もうその男には十分釣らせた。その日はそれでいい。

 ここで釣れ、と誘致された方の二人連れも、何匹か釣れたかと思うと、ゴミが流れてきて釣れなくされたりしているのを見ました。

 で、私は釣りのプロになろうと一生懸命頑張った時期があって、上記の、釣れていた人が突然釣れなくなった原因が解る。アジ釣りはエサの動きが大事です。波の上下でウキが上下し、それに伴ってオモリが上下。そして意外にも、水の中ではハリスが、あたかもピアノ線のように固く作用して(たといハリスが04号という細いものでもです。私は自宅の風呂桶に水をためて実験したので知っている)、ま、ハリもエサも小さくて軽いということもありましょう、ハリスがエサを突き、エサも上下動します。
 この日は、イの仕掛けのようなちゃんとした仕掛けで、ハリスの突きでエサがよく上下動するのが、よく釣れた。ハリスがオモリのところへ絡んでからは、エサの動きが悪くなって釣れなくなったと思います。また魚の目に、なんだかモジャモジャしたものが見えるのも食いつかなかった原因かと思われます。

 なんと、
 「神はその人のハリスを絡ませるという方法で、その人の快苦を按配した」
 「神はそんな芸当ができる」

 私もその日、みんなと並んで釣りをやり、そう、その日が、2004年3月中旬に書きましたように、隣の人の仕掛けがピタリ、私のウキに絡んで、その人が金バリを使っているのを教えてもらった日だ。
 私は、そこそこに釣れたし、神の奥深さにも触れて満足したので、サオをたたんで、他の人の釣りを見ていたのです。そうしたら上記のように、神は自らの能力の途方もない物凄さを見せてくれたというわけです。

 金バリを教えた芸当だけではタマタマそうだったと思うだろうから、ということだろう、この日は引き続いて、神は意図的にハリスをオモリの所にモジャモジャ絡めるという途方もない能力を見せてくれた。

 で、これと似たような経験を、埼玉・元荒川の釣りに移ってからも、させてもらった。
 写真ハ、二。「丸カン事件」として忘れることが出来ない。

 越谷市役所あたりの元荒川は川幅20~30mぐらい、水深1メートルあまり、水は濁っていて流れがある。図のような重めのオモリを底に沈めてフナ、コイを釣る。サオは5m前後。

 「神は、流れのある川底に落ちている直径2ミリの丸い輪を、釣り人が5mサオで投げこんだ仕掛けのハリ先で射通すことが出来る」

 ある日、私は、「今日は何にも収穫がないな、全然釣れないし、釣技の収穫もないし、こんなに無駄な一日があっていいのかな」と思っていたら、やっぱり神は私に無駄な一日はさせなかった。
 強い風が吹き、釣り人は私だけになっていた。1985年12月18日、もう冬だ、寒い。風と波でウキへのアタリが解らない。かくするうち、アタリらしきものがあってアワセると、ガツンとなってイト切れ。ハ図のような仕掛けのオモリのところから切れている。仕掛けを直して再度挑戦。

 また小さなアタリらしいものがあってアワセると、空振りだが、なんと、さっき切れた私のハリスがかかっていた。しかも、二図のように、ハリ先が丸カンに刺さっているのである。
 寒い冬の、私一人の孤独な釣り、しかも全然釣れない。
 こんな日は神がデッカイ収穫をくれたのだ。とっておきの賜物を。

 ここでもう一度、勝浦の経験を思い出させてくれた。
 勝浦で、隣の人の仕掛けをピタリ、タイミングよく私のウキに絡ませたり、よく釣れていた人の仕掛けをオモリのところでハリスを絡ませて釣れなくさせたのと軌を一にしている。

 丸カン事件だけだったら「ひどい偶然も起きるものだ」で、おしまいにすることも出来よう。しかし、勝浦での上記の二つの経験と軌を一にしているし、
 私の人生、この奥深い哲学を形成しないことには、あとがない。崖っぷちで起きたこと。
 上記の出来事一つ一つが、他と関係なく起きたのでなく、整合性をもった中で起きている。
 
 しかも、神がこれほどまでの能力をもって、我々を細かく支配していると考えますと、
 その後の私の身に起こったことをスッキリ理解することができます。この世のすべてを合理的にスッキリ理解することが出来ます。

 私のこれまでの人生は私の力を超えて、まことに不思議な出会い、出来事が次々に起きて、私の命が支えられ、この哲学が出来あがってきました。
 神は「丸カン事件」のようなことを意図的に出来る能力をもち、また私が申し込んだ公民館のパソコン講座の抽選に意図的に当たらせることが出来、
 その他、私の人生でのこれまでの数々の出会い、出来事をつくりだして私にこの哲学をなさしめ、

 私も他の人並みに、深い満足の人生を頂だいした。私の力を超えてそうなった。

 そういうこと全てを創造出来る能力をもった神がこの世を支配していると考えますと、
 この世の一切を合理的にと申しますか、全てが整合性をもったものとしてスッキリと納得して理解できるのです。


 我々は神の物凄い能力の前に言葉もない。
 こんなに、驚いても驚ききれないほどの能力をもった神が我々を支配している。

 ここにおいて、我々は、自分に出来るだけのことを一生懸命やって生きるのみ。
 人生は真っ向から正攻法で生きる。姑息な生き方はしない。

 もちろん近頃、毎日テレビで深々と頭を下げているおじさんたちのような欺瞞的な生き方はしない。
 

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