「この世は神の秩序にある」、神の助力あるための条件

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(ユリカ小学5年は食が細く背が伸びなくて痩せっぽち、「このままじゃ大人になっても小人みたいかも」と大変心配したのですが、近所のヤブ医者の自信たっぷりの診たて=「心配いらないよ、時期が来たら伸びる」が当たったみたい、近頃やっと、顔がふっくらしてきた。そのうちタテの方向にも伸びるだろう)
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(ガマ女が病院の中へ入っていき、サクハ小学4年と私が駐車場のクルマの中で待たされていたとき、
 私が、「抱っこさせて」と言うと、
 サクハ、「あそこの窓から人が見ているかもしれないから・・」
 私、「それじゃ、誰も見ていないところなら抱っこさせてくれる?」
 サクハ、「うん」
 私、「楽しみにしてる」

 だけどこれ、誰も見ていないところというと、どう考えても私のウチしかない。
 多分、ブレーキがきかなくなって大目玉をくらうことになるだろう。

 結局、妄想の世界ばかりで抱っこしています。
 
 一生、そうなりそう。
 それが一番いい。)

 10連休も明けた、しかも、やっとネットの海況図が出た、館山は19℃台にも上がっている。もう、アイゴやメジナが釣れるかも。今日あたり行ってみたいと思っていたんだけど、またまた神に封じられた。今朝は霜が降りそうなぐらいの異常低温だという。早朝の満潮を逃したら大物は釣れそうもない、諦めた。代わりに哲学をやろう。

                   ( つづく )

 ちかごろ、このネットに書かない日が多くなっていますが、
 神が、
 「いつまで似たり寄ったりのことを書いているんだ?ここらで、これまで書いてきたもの、その中枢部分を振り返れ」
 と、こう申しますもんで、
 釣りに行かせてもらえない大苦痛をエネルギー源として、この哲学のカナメの部分を読み返し、考え、校正していました。

 私の世界観は、その哲学としての本質上、科学的証明はできないという結論に達したことを、ちょっと前に書きました。

 私自身の例を見ても、83歳になる今もって不適応の苦しみに喘いでいる、この苦しみの代償として、ようやく、

    「この世は、神の心の発現として合理的な秩序にある」

 の不動の境地に到達できたのです。

 これによって「迷子、混乱の苦しみ」は、ときには難題に直面することがあっても、わりと速やかに脱却できるようになりました。

 (ろくに苦しみがない者が、いっぺんの科学的証明によって、この哲学の恩恵にあずかることはできない道理だ。
 ひとつの宗教的境地、悟りに到達するには苦行が必要なのと似ているでしょうか)

 そのほか私の哲学は、神の心が自分を支配していること、神が私をどうしようとしているか?が解るものだから危険に挑戦できる(コロンブスになれる)とも言いました。

 「神は終始一貫、私に、この哲学をなさしめようとしている」

 女房との出会いをつくり私の生活を支え命を支え、勝浦港で神に閃かせパソコンと出会わせ、さらには、プリゴジンの新聞記事との不思議な出会いによって、この哲学のエピローグを立派なものにしてくれた、などなど・・
 手取り足取り、この哲学を形成させてきました。

 魚を釣っていたといっても苦しみの釣りだ、遊んでいたわけではない。

 私の哲学には未だ一人の共感者も現れない。この哲学によっては全然世を動かすことが出来ない。

 すなわち私は未だ、まったく「適応期」に入っていないのです。いまだ「苦闘期=fit・up期」にある。苦しみの貯金ができている状態。

 こういう私から、神は、クルマの免許を奪ってしまうはずがない。

 また、神が、私の運転を、事故が起きないよう守ってくれているのを感じます。


 まあ、この哲学の真実性は、
 最終的には、私にも、いずれ適応期=世界的ドヒャー、私の哲学がモテハヤサレル時代、が来ることを予言して当てて見せることによって示すほかないと思っていますが、

 そうなる前でも、さしあたって、免許更新手続きに奇跡的にパスして見せるとか、こんなにも目が悪い(両眼視力は眼鏡をかけても0.5ぐらい)のに不思議にも事故が起きないことを示して、
 多少なりとも、私の哲学が、この世の成り立ちを正しくつかんでいることを示していきたいのです。

 ( 難しいことをサアーッと書いただけだから校正の必要があるでしょう )
 

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